ソーシャルメディアの上で先祖返りするコミュニティ

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本日はこちらの本の出版記念イベントに行ってまいりました。

著者12名のうち11名が揃って自分の執筆担当部分についてライトニングトーク形式でポイントをレクチャーするというなんとも贅沢な企画でございました。

そもそもこのイベントが「ソーシャルメディアをどう教えるのか」と題されている通り、この本はソーシャルメディアに関して教える時の教科書として作られた本です。編者の藤代先生始め大半の著者の方は大学で学生と接している方なので、本の内容も主に大学生を念頭に置いているものです。

今の大学生といえばソーシャルネイティブと言われる世代です。デジタルネイティブですらない私の世代にとって、そもそもインターネットといえば(というかその前のパソコン通信も)ネットはリアルでつながることがない人ともリアルとは別人格でつながれる、リアルとは別のコミュニティを作れる場所だったのですが、ソーシャルネイティブ世代にとってのネットはソーシャルメディアであり、時間が経過しても地縁しがらみすべてひきずったままそこに存在し続けるリアルなコミュニティ(かなり意訳)であるという指摘は腑に落ちました。

我々、かつてはネットの上に「アジール」を見出していたんですけどね。

村の住人全員が顔見知りな地域共同体から匿名性を持つ都市へ、そして匿名性を持つインターネットから個が明らかになるソーシャルメディアへ、そしてソーシャルメディアのつながりはは全員顔見知りの同級生・地縁コミュニティと重なったまま時間が経過している、と考えると、コミュニティの形としてはむしろ昔の村社会に近いし、むしろ時間と空間を超えて離れられなくなっている。昔と違うのは、村と村の間には物理的な距離があったので情報が伝わることはなかった、あるいは伝わるのに時間がかかったけど、ネットでつながった今の「村」と隣の「村」の間には距離がなくて、情報は一瞬で伝わる、なのに村人の意識は昔の村にいた頃と変わらない。

そこから抜け出るための手法として山口先生が提案された「分人化」というのは一つの有効なソリューションになりそうにも思えますが、悪意を持つ主体にとってはその背後にある「一つの肉体を持った人間」を特定することで間違いなく物理的な脅威を与えられるので、性善説でしか運用できないかなあと。「できるだけ特定されないように」振る舞っても、自分以外の人間の不注意は防げない。

結局、新しい人、もの、コトとの出会いによって結びつく人を変えていくことでしか状況を変えることはできなくて、だけどそのための手段もいまやネットに大きく依存するのでいわゆる(昔から言う意味での)ネットリテラシーも必要だよね、となり村との距離がないことを前提にした振る舞い方も教えなくちゃね、ということで、今の大学の先生たちって大変だなあと思いました。

でも、「ソーシャルメディアって何?」という人にはこの本ちょっとむずかしすぎるだろうなあ。
そういう人向けの教科書も必要なのかもしれません。(主に企業とかNPOとか自治体とかの人たち向けに…)

イベントを企画いただいた藤代先生、ご登壇の皆様ありがとうございました。
(ちゃっかり差し入れのお菓子までいただいてしまってごちそうさまでした!)

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